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男は病人から房一へぎろりと眼を移すと、
庄谷はほんのしるしだけにちよつと頭を動かしたが、やつと相手が誰だか思ひ出したらしく、その細い眼が急に徴笑した。
恐らく、房一も他の場合にはこれと似たりよつたりの動作をやるにちがひない、たゞ道平に向ふとこんなに易々とできないのだ。
彼はこの「黒」と呼ぶ馬を非常に愛した。彼の家の裏に、大きな納屋があつて、納屋の隅が馬小屋風に床板を張り羽目板を張つてあつた。彼はひまさへあれば馬小屋に出かけた。次兄が馬の世話をする役であつたが、房一はその傍に煩うるさくつきまとつて離れなかつた。次兄は馬の世話をするのはそれほど好んではいなかつたが、あまり房一がつきまとふので、一種の矜持きようぢを感じて来て、房一には少しも手出しをさせなかつた。それで、房一は次兄の眼をぬすんで、馬に水をやつたり手から草を喰べさせたりした。馬が草をむしるやうにして喰べる、その度に房一の手に快い動きがつたはつて、彼は身ぶるひのつくほどうれしかつた。夏の夕方、馬に水浴をさせる、それが彼には何より楽しみであつた。次兄が彼を馬の背に抱へ上げてくれる。彼は小さい身体を弾はずませて、鬣たてがみを指の間でしつかりと捉む。次兄が彼の背後にのつて、彼等は蒼然と暮れかゝる家の前の路に出る。日は大分前に落ちているが、空はまだすつきりと明あかるい。路の傍の青田の上にうす青い影のやうなものが一面に漂つて、どこからか煙の匂ひがする。土堤から河辺に下りる路は狭く急だ。馬ががくりとその路に足を踏み下すと同時に、背上では房一と次兄が大きく前のめりになりさうだ。危く左右に揺れて岸辺に出る。水面は黒く青く、遠く白く光つている。腹まで水に漬つかる場所に来て、馬は鼻面でちよつと水にふれ、首をふる。房一の足にもう少しで水がとゞきさうだ。瀬の音が急に下手から水面を匍ひ上つて聞える。房一はわざと鬣から手をはなしてみる。落ちはしない。彼はふりかへつて兄の顔を見て微笑する。彼は自分一人で馬に水浴びさせたいと思ふのだつた。
と、いきなり云つた。
腹に物がつめこまれると、さつきはあんなにへたばつてしまつた神主の一隊もどうにか元気がついたやうであつた。これからいよいよ町通りである。自分の家の前を、妻子や使用人達がずらりと見物している中を、しやちこ張つて、堂々と歩かねばならないのである。で、大半はいつのまにか草履や下駄にはきかへていたものの、まだあの木箱をひきずるがらがらいふ音をたてて、紅い色の滲んだ、紙衣の神官達は、笏を前に構へ、気を張つて真正面を向いたまゝ繰り出して来た。俳優で云へば、まさに花道の出にさしかかつて来たところである。
彼が冠をとると、円味のある顎肉には紐の痕が紅く残つていた。
二階の部屋だつたので、障子を開けてみたが、空はどこも真暗らで所々にうすく星が光つていた。その静かな黒い拡がりがかへつて不気味だつた。すぐ下の通りではどの家も表の戸を開け放つたまゝ道路に出ていたので、屋内からの明りが方々から路面に流れ、立つて空を見上げている人達の半身を照していた。黒い人頭がざわざわと右に行き左に行きしていた。所々の家の切れたあたりは驚くほど暗かつた。鐘はまだ鳴つていた。それは今、さうはげしくはなかつた。だが、冴えてはつきりと、一所だけで鳴つていた。多分、左手のずつと先きあたりらしかつた。
これはすばらしい銅板画のモテイイフである。黙々とした茅屋ぼうおくの黒い影。銀色に浮かび出ている竹藪の闇。それだけ。わけもなく簡単な黒と白のイメイジである。しかしなんという言いあらわしがたい感情に包まれた風景か。その銅板画にはここに人が棲んでいる。戸を鎖し眠りに入っている。星空の下に、闇黒のなかに。彼らはなにも知らない。この星空も、この闇黒も。虚無から彼らを衛まもっているのは家である。その忍苦の表情を見よ。彼は虚無に対抗している。重圧する畏怖いふの下に、黙々と憐れな人間の意図を衛っている。
と、大声で訊いた。
そして、こんなにはつきりした明るさの中で、もう十分に伸びつくした草地だの山地の樹木は、やたらにもくもくし、ぢつと息をつめているやうであつた。それは全体に黒つぽい様子をしていた。そのいくらか濁つた、一杯に成長し切つたことを示す黒味の中には、何かしらすぐ傍までやつて来ている九月の爽やかさを感じさせるものがあつた。
ゆつくりと時間をかけて、楽しみ楽しみ喰べた。それは喰物のおいしさよりも、かうやつて小娘のやうな真似をするのがおいしかつたのだつた。
練吉と房一は、川沿ひの路を、肩を並べて自転車を走らせていた。